HETEROCHROMIA
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ウディアレン似の鷲鼻のババァ.

アンゼリカ

鼻という職業、偉大なる称号を与えられる者がいることを知っている。それは日常にとけ込み、また創り出している気高い身分であり人工的において真髄を発揮する。卓越して、いかなる対象であっても嗚咽を吐き出すこともなく、オブラートに包み込み飲み込んでしまう。それを咀嚼し、最前を尽くした調合を行う。そこから生まれる香りが人々をまた一つ上へと誘い、騎士のように忠誠を示すのだ。練金、黒魔術・・・・。形を持たなければ呼び名は掻い摘んでおこう。

ええ勿論、その存在は稀有なものであって、与えられるべく授かったいわば能力である。
男にそんなことが出来るはずもなく、またそうした匂いに対しても決して敏感な訳でもない。ただ、一瞬でそこへと戻ることがある香りがしっかりと記憶されている。そんな甘い香りが世の中にはある。そう感じるのはもしかしたらこの男にだけかもしれない。またそうででないにしても記憶を呼び起こし時限を越えることが出来るのはこの男に対してだけである。現世を忘れさせ、後々気づく幸せの過去、蘇り。気を鎮めさせる甘い香り、アンゼリカ・・・。

ピエールはアンゼリカの虜となっていた。今もなおこうしてだ。目の前に幻影のように伸びる枯れ果てた枝先を見ている。香りの主、そこにいるべきようとして・・・。
ひとりぼっちは陰を探しては追う。
どこで香るかは分からない。しかしその香りを忘れぬうちにふとしたとこでそれは漂う。そしてその瞬間に感情をも持ち去り過去へと誘われるのだ。極楽、そここそが栄光のようにセピアに包まれる。けれどその香りも寸分違う。そしてまたその香りの元はピエールの元をすぐに離れてしまう。気怠いからだだけの自分。
すると焦燥とした香りとともに画と時間はカタカタト崩れ落ち、足のふんばりが聞かぬほどの今が戻ってくるのだ。寝ているときと起きてるとき、果たしてどちらが現実か?活動時間がすべてであろうか・・・?レムとノンレム、どちらが本質か・・?頭が創り出している空想の本質は一体どちらか・・?考えるほどにピエールはもやもやしてあの香りのさきこそに空間の域を見いだそうとす。ならばその香りにいつまでも包まれていようと思うのは当然なのかもしれない。ただ靡くカーテンの向こうではあの頃からの洗濯物の干しかたがあり、おいしいいものを今は食べたくないように、毎日の同じ食事が机に並ぶ。それをみてはピエールは息をこぼす。
ピエールの目の前には今も、アンゼリカが見える。根元はここからだと感じる。
アンジェリカはアンゼリカである。全ての元。原点。軸。xにもyにも伸びる。包み込む。材料だ。
乾燥、粉砕、混在、昇華・・・。パーセントの向こう側。天秤と分銅の錬金術。ピエールへの憑依が始まり、ケネス・アンガーがひっそりとカーテン越しで見守っている。

世俗にまみれて、金銭に犯される。メトロには乗れず、缶からにちぎれた段ボールの看板。マーダーボールの高さ。それでも鼻孔にこびりついている・・・アンゼリカ。
彼女のあの香りはその瞬間に精神、肉体を若き日に戻す。そうならば自然と体も動く。金銭もたまる。何科もわからぬ植物は増え、作業工程は巧みを持って繰り返される。
しかし、その継続も幾分かの持続で効力をなくし、鼻の中から抜け、地べたへ這い蹲る暮らしがやってくる。幾万人めかに彼女の香りを誰かが漂わせるまで・・・。むなしさにさよならはない。

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ピエールはまだその香りには届かない。
何かしらの香水と、絶妙な時間の経過。オーデコロンでないそれ。そして分泌液が混じり込みピエールに活力を与える。似たような香りは多い。即ち+の体臭が要点にあることにピエールは確信めいた者を感じた。
するとどうであろう。確かにアンゼリカである。それには間違いない。それに伴う消化作用。ピエールは自分の匂いを感じることにもなった。そこで気づく。全ては植物ではない。そこに付随する動物性の香りが大切なの。体臭に当たる部分をそこから補足する必要がある。
香に魅了されるのはピエールだけでない。だからこそ自らが異常思考者でないとピエールは認識している。ピエールは蘭麝待を思い浮かべ、そこに見せられた者と自分を重ねた。足りないのはやはり動物である。蘭に足した麝香もそうだし、竜ぜん香もそう。・・ムスク、アンバーグリス。ゴールが見えればそこに向かって走れる。

そこにプルーストが起こらなくとも、すれ違いざまで人は振り返る。
そのことを続けるためにもだ。
ピエールはそれなりの時間に没頭し、小金持ちになっていた。部屋も引っ越した。そしてついにだ・・・。
フローリングの片隅には緑が生え、麝香鹿が草を食べている。壁ギリギリの大きな水槽にはぴったりサイズでマッコウクジラが口を開けて笑っている。ピエールはその間でルームランナーに興じている。

魅惑の香り、アンジェリカ・・・。では、それを身につけたならば、その持続続く限り永久と化し、そへ浸り続ける、否、本物の現在進行形の過去として世界を過ごせるのか・・。体内時間もそで止まり、無限のコンマ何秒を生き続ける。探求心はエネルギーである。寂しさや不安、孤独を紛らわし暮らしをよくする。ピエールは亡きアンジェリカを胸に抱き寄せることにきめた。

その結果である。窓は風通しの為である。空気の入れ換え。こもらせぬことが必要だ。
ピエールは食卓で食事を取っている。少し前とはメニューが変わった。ちらりと視線を落とせば、麝香シカが草を食べている。そして、糞をする。ピエールは水槽に持っていき、上部の装置にそれを入れる。糞は濾過され、そこからプランクトンが発生する。それをマッコウクジラが大きく口を開け、一気に吸い込む。それに夢中になってる間に、水槽の後ろへピエールは回る。尾っぽを少し切る。鋭利にスパッと切る。尾の下部では再生されかかった尾が少しだけ痛そうに底を打っている。
ピエールはその肉を適度なサイズに切り、食卓に並ぶ。今日は竜田揚げである。

離れた場所にある、作業用の机の上には前と同じように植物やその粉末、またそれにあたる道具が散乱している。
でも、クジラもシカも日々を暮らしている。彼らは生きている。陰嚢がどうとか分泌液とか、それらに分解はされていない。
彼らは皆で暮らしている。ピエールは寂しさを感じない。

・・・あぁカンタレッラ!!作業用のテーブルの上には偶然にもボルシア家の秘薬と同じ材料が揃っていた。