お前が食べるなら
就職活動なんてどうでも良かった。周りは人生探しに奔放してるが、見れば見るほど滑稽に思えた。進学と一緒。何にも変わらない。ただ年相応の振舞えさえしていれば誰にも迷惑はかけない。文句も言われない。最低限をこなせばいい。だから仕事なんて何でもよかった。
製薬会社の末端に仕事が見つかった。なんてことはない。くじ引きの結果がそれだったわけだ。地元を離れるのに寂しさは?なんて聞かれたが、そもそも地元意識すらもない。友達もすぐに忙しくなるだろう。そうして就職をした。
新薬には実験が不可欠である。何にも知らない私は白衣を着て、仕事をした。勉強はする。それでも覚えるのは横文字の単語だけ。
仕事はというとネズミやサル、時には爬虫類に薬を投与し、経過を見守る。そうして至らなかったモノたちを処分することだった。残酷なんて嘘だ。平然と生命が削られていくその環境はどことなく無機質でそれなりに居心地が良かった。そんな集まりだった。普遍はいつでも環境で生まれる。それでも人間性を忘れまいと、時折同僚たちは躍起になり、コーヒーと煙草の香りがいつもどこかで漂っていた。
田舎の社会には一種、契約じみた習慣がある。それに乗っからなければ村八分。少しのメンドクサを我慢すれば逆説的に楽。余計な考えはいらない。
私もその習慣に習った。その異質な職業で心は凍てついており、また大人になる必要があった。上司と不倫関係になった。20個も違う冴えないおっさんの愛人だ。笑える。これが人生か。会社の人間は誰もかもがそれを知っているくせに誰もそれには触れない。若い男性社員は目で訴えかけてくるが、口には一切出さない。その態度が一番ムカツク。まだ、おっさんがまともに見えて、そうして暮らしていた。
すると、私はまともなんだと気づく。
限界値はとっくに超えていたが、こいつらはそんなことを気にかけようともしない。昨日のマウスの代わりは幾らでもいると思っている。おっさんに問いかけても答えが返ってこない。
私は切れた。同僚の前で何もかもをぶちまけたが、コイツラは何も反応を示さない。私は新薬を飲み込み、その場で意識を失った。起きたのは次の日の朝だった。いい加減な会社は実家に連絡すらしなかった。まぁ、それで良かった。家族は何も知らない。そうして、仕事を辞めた。3年ぶりに東京に帰った。
家には部屋があった。家族は喜んだが、私は大人として扱われ、どこか居心地が悪い。それでも3年間を忘れる様に部屋の中の私はオタクにどっぷりと浸かり、子供に戻った。少し、我がままを言うようになった。でも、そのたびにママが少し嫌な顔をする。
私は仕事を始めた。カットフルーツの工場のバイト。
なんて事はない。ネットの架空の友達がやっている仕事だった。
永遠と
旬のフルーツを切り、
パック詰めしていく単純作業。
私には向いている。
友達なんてあんまりいらない。たまにラーメン屋さんにいければそれでいい。
けれども、不運にも唯一の幼馴染は今どきでイケていて、私を外の世界に連れ出す。
携帯ばかりをいじらせてはくれない。
この子は私が不倫をしていたことなんて知らない。
「あんたには愛が足りないよ」と言って街コンに誘われた。
お喋りは嫌いじゃない。
学生時代とは違い、負けぬくらいの恋愛経験もある。得意の数学が世の中では何の役にも立たないことも知っている。
意気込みはあったが、
そいつらの顔を見たとたんに無駄だと悟る。
そんな運命なんてないことくらい分かっていたはずなのに・・・
ふてってしまう。
友達の声もうるさい。
コーラを飲むしかない。
笑われた。
たかが、完敗前にコーラを一気に飲んだだけなのに、
クソ店員は笑ってもう一杯コーラをくれた
私を笑うな。
会は始まる。
分かっていたように時間が過ぎるのをただ待つ。
もう一度コーラをもらいにカウンターに立つ。
「ジンジャエールもあるよ」
「じゃあジンジャエール頂戴」
「酒のめないのね?」
「うん。弱いし、のんでも楽しくない」
「そう、そりゃ残念」
店員は仕事中なのに酒を飲んでいる。そうしてカウンターに来る人間と会話をする。
「つまんないでしょ?」
「うん、つまんない」
「なんでかわかる?」
「いや、わかんない」
「そう。じゃあコーラを楽しみな」
「ジンジャエールじゃん」
「どっちもかわんねぇよ。ほら、戻りな」
席へと戻る。
席替えが続き、
時間が来る。
一周、回って分かったことがある。ここにいる男は全員クソだ。
ただ一つだけ違うクソがいる。
何せ顔がいい。
あのクソ店員め。
ズルい。
会が終わりそんなことを友達に話した。
携帯には顔も覚えていないクソから連絡が入る。
「じゃあ、店戻ろうか?カウンターで少しだけ飲んで帰ろう」
友は何だか嬉しそうだ。
そういや、そういう話を自分からしたことなんてそんなになかったっけ?
「おかえり。なんだよ、どっか飲みいってこいよ。まぁ、僕は僕で嬉しいけどね」
クソ店員はチャラい感じで、
慣れていて、
少しだけむかついた。
それでもそれはクソスムーズに会話の流れを作り、私は気が付けば喋っていた。
ゲームがいらない。
目を見て話せる。
店員は私の職業を聞き、私は答えた。
「カットフルーツ」
店員はやたらと笑って興味を示した。
フルーツがカット技術以外に役に立つなんて初めて知った。
男はずっと笑っていて、ムカつかされ、そして癒された。
それは私だけじゃない。同じような出戻り組が現れ、私たちは端に追いやられた。
男は私が帰ると言うのを分かっていたように目の前に来て、
優しく「またね」と言った。
常套手段だとわかっているが帰り道の一時間がとても気持ちよく過ごせた。
その晩、
絵を描いた。久しぶりに人物画。
男性の絵を描いたんだ。
私は週末にその店へ行った。
一人で行った。前日に決めた。
ランチは4種類でオムライスを頼んだ。
カウンターに座ったが
男はいなかった。
まぁいい。そんなもんだ。
逆に丁度良い。
店が落ち着くころ、厨房から男が出てきた。
「おぅ。そんなもん食ってんだな」
「おっ、いたの。いいじゃんオムライス。好きだよ」
「昼は中やってんだわ」
俺様のオムライスだった。
男は料理も出来た。
カウンターの男と変わり、付き合ってくれた。
けれども
とても気だるそうだった。
「昼はだめだ。誰とも話したくない。夜、きなよ」
「いいじゃん。いつこようが」
「そりゃ、お客様の勝手ですが、飯作ってんよぼく」
「いいよ、関係ないもん」
男は笑った。
そうしてその日は私に付き合ってくれた。
店内に客はいなくなった。私はなくなったコーラを飲んでいた。
「ほら、閉めんぞ、休憩だ。どっかいくだろ?でるよ」
「うん」
男は私にリュックを背負わせた。
950円だった。男は私のイヤリングをみて、可愛いねと言った。
自分でつくった奴だった。
「お前、こんな汚い奴と歩いて恥ずかしくないの?」
「なんで?」
「そう。ならいいけど」
言われてみれば汚かった。これが飲食店か。クロックスのサンダルによれよれの黒いズボン。シミの付いたTシャツを隠すようにシャツを一枚羽織っていた。
「確かに汚いね」
「うるせぇ。いいんだろ?」
「うん。いいよ」
よく知らない街を男と並んで歩いた。
よく知らない街のよく知らない男は、
よく知らない街の人たちと挨拶を交わした。
はっぴいえんど、風をあつめてを口ずさんでた。
そう男はいった。
男は心ここにあらずといった遠い目をして、
それでいて私の目を見て話しかけた。
そうして私のガチャガチャに付き合い、バウムクーヘンを食べた。
男はその街でどう暮らしているのか?尋ねたら「眠っているよ」と答えた。
夕方になった。男は私を駅まで送った。ふふ、駅に誘導された。
「行こうか?」と言われたら今日はもういいだろうと言われた。
男は遠い目で手を振った。
帰り道の電車はまだ空いていた。
はっぴいえんどの歌声はどこか空虚だったが、こころに心地よかった。
買ってくれた漫画をパラパラとめくったら止まらなくなった。
楳図かずおの14歳。
「ボーダー」と読んだら、「先生だ。先生」と言われた。
確かに先生だった。
そこが飲み屋だなんてどうでもよかった。男はその態度を正せようと時折怒ったりもしたが、私には何も響かなかった。カウンターですることと言えば、ゲームであって、漫画を読みコーラを飲む。してはいけない悪いことをする子供じみた振る舞いをがそこでしたかった。他の客なんて知ったことじゃない。
男はなんでも私のいうことに興味を持った。
それが職業だとしてもかまわない。
男は人が好きなことには今日があると言った。
お笑いが好きな私には誰よりもくだらないことを言う。
次に会った時にはyoutubeでそれを見ていてくれて、
また笑った。
私は少し昔のお笑いにも興味を持つようにもなった。漫画もそう。
恥ずかしかった絵も男にだけは見せた。
ライオンやきりん。
男は人に絵を描かせることが好きらしく、何度もきりんをいろんな人に描かせていた。
男性の絵も見せた。
ただ、黙って微笑んだ。
言葉詰まる私にお話をかいてあげようかといった。
男にならできると思った。
そう簡単に言葉尻には乗らないが、引き出しにはたくさんの絵がしまってある。
夢の物語。
いつかの楽しみ。
その店へ通うことはその時の人生だったのかもしれない。
夜の店には常連客がいて、街の人間だった。めんどうな組み合わせがあることも知った。私は黙っていても怒られなくなった。そう知られるようにもなっていた。
そうしていても昼に行くよりかは男は機嫌がよかった。
昼に行くと露骨に嫌な顔をされる。
それでも散歩にはいまだに付き合ってくれる。
私は仕事が終わってから店へと初めて言った。
21時過ぎだった。
いつもの私の帰る時間。
男は少し酔っぱらっていて饒舌だった。
誰かが帰った後らしく、丁度良かった。楽しい時間だった。
その後、カウンターにはほかの客が座った。私は彼らから酒をもらった。
不味いもんであろうと、男が甘くしてくれた。
それを2杯飲んだ。
よく笑った。
眠くもなってきた。
面倒くささが全開になる。
男もそのことに気づいている。昼間と同じ顔だ。
客はいなくなる。今日は終わる。一日がおわる。
私で一日が終わるんだと男は言ったが、私は動かなかった。
男は会計を促した。
2000円。
「いくべ」と言ってリュックを背負わした。
男はお兄ちゃんのような振る舞いをしているつもりだったが、私にはもう関係なかった。
兄でも構わなかった。
男は私を自転車の後ろに乗せた。私は男の腰に手を回した。
男は何も言わない。「いくぞ」と夜の人気のない商店街を進む。
売れない画集と、響かないフォークデュオ。夜に佇んでいる彼らは景彼は色に過ぎない。
私もそうに違わなかった。
自転車が止まる。
「手品みんべ」
男は蝶ネクタイのに1000円を渡す。
冴えない顔の蝶ネクタイは拙い調子でしゃべり始める。
男は小ばかにするように、
それでも愛着を持って彼に接する。皆と一緒。
蝶ネクタイの仕事は本物だった。
「ストップくらい大きな声で言え」
「なんでよ」
すぐに命令調で私に要求する。
それでも男の声には従える。
大きな声で「ストップ」を言った。
冴えない顔のマジシャンも大口を開けて笑った。
男は小さくうなずいた。
自転車は駅で止まり、私は降りざるをえなかった。
どんな顔をしていただろう。きっと変な顔。
その間男は私の顔を見なかった。きっとそんな顔をしていることを知っている。
見なきゃいい顔があるということを男は知っている。
「気ぃつけて帰れよ」
男はママチャリのハンドルに両腕を乗せて、変わらぬ調子であっさりと別れを告げる。
私は声に押されるようにエスカレーターに乗った。
そうして悔しいけど後ろを振り返った。彼は手を振った。
きっと、
今日の最後の仕事。
それでもそこにいて
確かに手を振ったんだ。
私は何者でもない。
何者である必要もない。
娘であり、
オタクであり、
カットフルーツの女でかまわない。
どうやら困ったちゃん。
わりきれば
成すように
なれ。
また遅くに来た。店にはまた常連がいた。今日はそれでいい。
時間はただ過ぎる。
彼は尋ねた。
「お前、電車は?」
「うん?終わった」
言ったった。
彼は苦笑いを浮かべた。
「どうすんの?」
「どうにかなるでしょ」
「そりゃどうにかはなるだろうけど・・・なぁ?」
彼は私を茶化し、常連と話を続けた。
私はコーラをおかわりした。
客は帰る。
彼は店を閉める。
私は待つ。
困ったちゃんだ。
決めたんだ。
彼にどうにかしてもらうつもりだ。
彼はまた私を自転車の後ろに乗せた。コンビニでビールを買い、漫画喫茶の前に自転車を止めた。
めんどくさそうに会員証を作る。私も身分証を出した。
「おぉそういう字かくのね」
思えばあたりまえのこと。私の名前。漢字。私にも確かな名前があった。
私も彼の名を知った。
難しい字だった。
彼にはとても似合っていた。
「おい有香。これどこだ?俺ようわかんないかわ案内して」
彼は私の名を知った上で私の名を呼んだ。
私は彼の名を知った
けど
ねぇとしか呼べない。
「ねぇ、こっちそこの端っこ」
「あっそう。先行って。俺トイレ行く」
靴を脱ぎ、フラットシートに脚を伸ばすと今にも寝てしまいそうだ。
彼は戻ってくるとたくさんの人気の漫画を抱えてきた。
ほとんどウチにある奴。
「有香、これ読んでんだろ?」
「うん。家にある」
「じゃあいいか」
彼は漫画を一切見ないで、ビールを飲みながら週間プロレスを読んでいる。
彼の調子に釣られ、
私もビールを飲んだ。
二人で
youtubeでプロレスを見た。
静寂の中に興奮を抑えた。
そこまでは覚えてる。
もう、朝だった。
画面にはまだ飯伏幸太いた。
覚えてしまった。
「格好良かったな」
肘を曲げ、横になった彼が喋った。」
「うん」
でも
飯伏幸太は
そんなに好きじゃない。
もっとだらしなくっていい。
コーヒーをのんだ。古本屋に行き、また漫画を買ってもらった。
まだ12時前。彼は駅へと送った。
「じゃあ、仕事がんばって」
何だか女の子みたいなことを言って別れた。
彼は仕事。
私も夕方から仕事。
普通のことが漫画のように感じる。
パイナップルがまたたくさん余った。
店に持っていった。
彼はコーラと一緒にパイナップルジュースを出してくれた。
「これ、こないだの奴だよ、醗酵して微炭酸だ」
おそるおそる口にした。
シュワーッと口の中で広がり思わず唾をのみこんだ。
口にしていいのか疑問だったが、彼が出すなら飲む。
味はおいしい。
「コーラと飲んでもおいしいべ」
カットフルーツの需要は年々減っているらしい。それもそうだ。新鮮さもなく、カッティングも関係なく、目の前で加工した人間の胃へと流れ落ちる。
彼は声高々に隣でカットフルーツを力説している。
勉強したんだね。
ありがとう。
思えばカットフルーツのことなんて考えたことがなかった。
思ってもまたパイン。
どうせジュースになっちゃうぞとか明日思うくらいだなきっと。
果たして、私は明日カットフルーツのことを考えられるのか。
どうせこの時間だ耽る。
工場は無機質か?
そんなことはない。
タイ人と障害を抱えた青年が働いている。主はおばちゃんだ。
そんな職場だから何となくあたたかい。
私にとっては余計だが、
笑顔くらいは見せる。
カットフルーツは工程だ。
その流れを止めるわけにはいかない。
流れ作業が向いている。皮を向くのでも、箱詰めでも黙ってやってられる。
それが必然だ。
衛生的にも間違えていない。それすらも工程だ。
その点、タイ人はいつも怒られる。
メリハリが利かない奴だがそれで可愛がられている。
一人だけシュンとした男がいる。
ベルトコンベアで流れていくフルーツを最終確認する。
いつも寡黙で、無駄口をこぼさない。
でも、笑顔は出す。
きっと私とおんなじだ。
初めてそう思えて
フルーツを手にする彼を見た。
小さくて分厚い手。
確実に仕事をこなしていく手。
私は彼を見ていた。
彼も私を見ていた。
ベルトコンベアは流れる。
一切の狂いもなく
終業のベルがなるまでずっと。
ベルがなると彼は何も言わずにベルトコンベアの先に消えた。
私は後を追った。
帽子とマスクを外す。
椅子に腰掛ける彼がいた。マスクを顎まで下げてコーヒーを飲み、煙草を吸う。
私は立ち尽くしてしまった。
また、目が合っていた。
「おつかれ」
彼は煙草の火を消すと更衣室へ消えていく。
「あっ、あの・・・」
何となしに呼び止めてしまった。
「パイナップルいります?」
「いや、要らないでしょ?」
彼は更衣室に消えた。
何であんなことをいったんだろう。
しばし、頭の中にパイナップルが浮かんでいた。
更衣室から彼が出てきた。
「まだいたの?」
いまどきの普通にいい男だった。
なぜゆえ、カットフルーツ?
「ほれ、やるよ」
彼はみかんを手渡した。
いらないけど
もらうやつ。
それでいて捨てられない奴。
家に帰り
みかんにパイナップルの絵を描いた。
やがて
腐ったので
捨てた。
彼は工場にいて、
カウンターの中にいて、
心にいて、
そして目の前にいる。
最後の客が帰った。
小笑いして帰った。
嫌な目で見てやった。
彼もそうだった。きっと同じ目をしている。
また、二人きりになった。
スーパーで割引のカラアゲとビールを買った。漫画喫茶は一杯で入れなった。
「漫画はないんですけど・・・」
「横になれりゃいいんだ」
彼は店員に聞いて系列店を紹介してもらった。
自転車はまた走る。
ラブホテルを過ぎた。
自転車の速度は変わらない。
私は看板をじっと見た。
彼はそれを知らない。
自転車はすぐ先でとまった
入り口には漫画喫茶と同じ看板。中は田舎のビジネスホテルのようだった。
昔を思い出した。ばつが悪いわけではないが、
自然と右手が彼の袖をぎゅっと掴んだ。
彼は振り返り
少し笑って「うん」と言った。
この人はきっと何もかもを分かっている。
部屋は個別にドアがついている。ドアにはアルファベットと数字の鍵がついている。
「わけわかんね。やって」
彼は部屋の伝票を私に渡した。
彼はカウンターの外に出るとだらしない男だ。
出来ることをわたしにやらせる。
駄目なフリが愛おしい。
狡猾なずるい奴。
鍵をあけるのに梃子摺る私を見てニヤニヤしている。
こんな些細なことですら思い出にしてしまう。
そう
紡ぐ言葉と
佇まい。
作る。
「前を見ろ」と彼が言ったから、彼の前では携帯電話を弄らない。
彼の前だけでは。
でも、彼は私に携帯電話をいじらさせる。
「化粧してても、しなくてもどっちも好き」
これは彼が常連に言っていた言葉。
彼は架空の世界の私を私に還してくれるただ一人の人。
どうせ
忘れたっていうけれど、
それが事。
鍵が開く。
中は漫画喫茶とおんなしフラットシートとパソコン。
でも、個室で、ここには私と彼しかいない。
気持ちが折れた瞬間
気持ちが折れることは新たな気持ちが芽生える瞬間でもある
わたしにはプラスに働く
?____________
例え、一度でも体を重ねた相手の名前忘れるなんて嘘つきだ。
道楽気取って嫌いな人間。
そうなってしまった。
彼女を忘れたわけでない。生き続ける訳でもないが、
彼女の体液は何万分の一にも薄まって、血に流る。
どうってことじゃないが、
そういうことだ。
そうして時折思い出す。
メンドクサイい女だ。妙になついて、ベタベタと触れるわけでもないのに寄り添った。
ダサい格好で大きなリュックを背負って家出少女みたいで、石鹸の匂いすらしなかった。
無機質で物のようで、それでも触れると血が通っていて温かかった。
望んでる。
訳はわからなくもない。
僕は冷たい人間だ。
だから、
寂しい人には見えるらしい。
けれど、
与えられるものは何もない。
あってもそれこそ無機質だ。
君は愛と信じようとも、それを信じると寂しさは消える。
僕も消える。
もう酔っ払っていた。小娘に付き合うでもそうするしかない。
哀れだ。
ホテルが正解かは分からない。それでも女ですら知っているのは、漫画喫茶でも通用するみすぼらしさが僕にはあるということ。
不運にも仕切りがある部屋だった。背徳感があり、女に扉を開けさせた。
ヘッドライトを付けて、ビールをのんだ。
正直考えるのが面倒くさかった。
眠りたかった。
横になった。
女は脚を伸ばし上半身は起こしたままだった。
こちらを見ている。
群青色の靴下は足首で丸まっている。
手を伸ばしそれを直した。
触れてしまった。
温かかった。
体を起こし、女の髪に触れた。思ってた通りパサついた髪。
それでもそれは女の髪で
、僕はそのまま手を女の頬にあてた。
「電気消して」
一丁前にいいやがる。ヘッドライトを右手で消す。
左手は首筋を通り、女の胸に触れた。
右手を背中にまわし、優しく倒した。女の首筋にキスをする。
女は僕の背中でギュッと強く手を握った。優しくするつもりだったが、急に小娘が生意気に思えた。
欲情した。愛はない。首筋に強くキスをして、耳たぶを甘く噛んだ。女は吐息を漏らす。瞑った眼。瞼を舐めて、スカートに手を入れた。毛糸のパンツだった。
欲情が制される。小娘は小娘だ。
もう、止めたかった。早く眠りたかった。
こんな失礼なことはない。
終わらせるためにパンツを脱がした。
_____________?
なんでって?
「痛かったから」
彼のそれは痛かった。抱えきれ、我慢できる痛みだった。
真っ暗でも彼の顔が見えないのが分かる。
それでも彼に抱かれている。何の音も聞こえない。
私は眠っていた。
「おはよ」
同じ部屋でも確かに朝だった。彼は冴えない顔をしている。パンツは履いていた。靴下を履く。マットにはカラアゲが2つ転がっている。
彼は聞く。
「食べる?」
「お前が食べるなら」
二人は元に戻った。彼がそう望んだ。
いつものようにコーヒーを飲んだ。
駅まで送ってくれる。
変わるも変わらないも彼はとても無機質だった。
まるで
物のように。
改札にくると涙がこぼれた。
彼は
何も
言わず
ただ
黙って見ていた。
「だって、好きなんだもん」
それは今生の別れを意味する。
だから先に泣いた。
思ったよりも
早い
別れ
だった。
彼はハンカチを私に渡し、いつものように手を振った。
私は
電車に乗るしかない。降りる駅も分からない。
携帯を手にする。
中では誰かが笑ってる。
私も
笑うことにする。
電車はいつの間にか駅に着く。
私はもう泣かなかった。
SNSで出会った人たちと恋の真似事もした。
言葉は
軽く
薄っぺらかったが、誰も
体は熱く、
相手もそう思っているならば幸いだ。
それならば誰も傷つかない。
人のことを思えるようになった。
年月だけでなく、
私は
確かに大人になった。
カットフルーツはやめた。良き女ならばすることじゃない。小さな出版社の編集の手伝いをしている。親元も離れ、一人で住んでいる。無駄なものは捨てた。モノトーンな部屋だ。週末には彼が泊まりに来る。決して私を泣かすことはない優しいひと。
久しぶりにあの街に来た。あれ以来、なんとなく避けていたが、今の私にはとてもあっている街であった。バームクーヘン哉はもうなくなっていた。ガチャガチャはもう知らないキャラクターばかりであった。ほんの少し時が進んだだけなのに、あのころの自分を投影し、とても子供じみて思えた。
古本屋に行った。彼に漫画を買ってもらった古本屋。雑貨屋の二階をあがり小さな木の扉を開ける。小さく鐘がなる。擱くにはあのころの漫画たち。入り口の先には新刊が置いてある。リトルプレスの可愛い本たち。今の場所はここ。あのころは見向きもしなかった。あのころ彼が買っていた無地のノートはまだ置いてあった。その並びに同じような真っ白なB5の装丁。表紙には見慣れたライオン。私の絵。
『Dear Woman』
本を手に取る。
ページを捲る。
真っ白。
次のページ。
真っ白。
次
前書きがあった。
左開きの横書きで綴っている。
女々しいと云われようが男である。
忘れない
昔の女を思い出すなんて君らは嫌がるが、
僕は確かに
それらで出来ている
彼女らがいて
僕は
君たちに出会えたと思っている。
そうして、また女に出会う
願うことならば
君で終わりにしよう
あのころ
僕は
愛されるより愛したかった
でも今は
愛されたい
うっとおしいほどに
愛されたい
願うことならば
それを伝えよう
でぃあ うーまん
ページを捲る。
彼の恋愛遍歴が続く。
真っ白に単語だけが並べられている。
どれもが切なく、とても痛い。
すべてを背負っているならば、
これは業だ。
それを知っているように、
報われないことを知っている。
第5章
そこにだけ絵があった。
キリンのえ。
『カットフルーツの女』
涙がこぼれた。何の涙かはわからない。
前章の言葉が胸をついた。
「泣きたいときはそればかりを考え泣けばいい。涙は気持ちいいから」
真っ白な本を汚しそうだった。本を閉じる。
恥ずかしかった。
こちらを見ている店員と目が合った。
「いやいや、別にいいんですよ。刺さり
歩えっとましたか?」
涙を拭う
「ええまぁ」
「こないだも泣いてる娘がいたんですよ。恋の感情は皆一緒なんですかね?」
「どうでしょう」
「変わった人ですよ、それ書いた人。恋の仕方が分からないから振り返ってみることにしたと言ってました」
「お知り合いなんですか?」
「昔のお客さんです。しばらくこの街を離れていたんだけど、戻ってきたみたいで・・・近くでお店やってますよ。興味あれば行ってみたら?この後の予定は?」
「いや、とくに何もないです」
言わされた。
私はその小冊子を隠すように真っ白なノートを上に乗せ、レジに置いた。店員の女の子は私が泣いていたことを知らない。昔の青年はこうしてエロビデオを借りていたのだろう。
気持ちいい涙はもう終わっていた。
私は今の私に戻っている。
扉に手を掛ける。
鐘が鳴る。
「あっ、ちょっと待って」
さっきの店員が声を掛ける。
「これ良かったら。すぐ近くなんで」
彼の店のショップカードだった。
「ありがとう」
昔から笑顔くらいは出来る。
そのままポケットの中で握り締める。
扉が閉まる。
階段を下りる。
道にはこの街を楽しむ人たちが右往左往している。
不思議だ。
全員生きているなんて。
皆、感情があるんだって。
地下のタイ料理やからグリーンカレーの匂いがする。
昔はランチなんてやってなかったのに。
ポケットからショップカードを取り出す。
薄紫の下地に白い文字。
店の名前と営業時間。
電話も地図もない。
何屋かは誰かには分からない。
もう一度ポケットにしまうと言葉がこぼれた。
「17:00かぁ・・・」
有香、そうだ。あの子は有香。
プルーストは死んだ。あ